Even though she doesn't know me

  長らく続けてきたtwitterから,アカウントを残した状態で離れた。それが5日前の話。

 別にはてなでなくても良かったのだ。はてなに抱いていた,異様な選民性の匂いを隠さない世界観に対する嫌悪は,まだある。

 何かものを書き残すところ,ぼくと繋がりたいと思ってくれる誰かが,思い出したかのように目を走らせるそれを,屈託もなく無造作に,置けるところ。それだけ満たせれば,他の選好は消えてしまう。

 選んでくれた人に,twitterはやや暴力的だった気もする。嫌いになったわけじゃない,愛することに疲れてしまったのかもしれない。松山千春的な別離だ。なんにせよ,選択が残されているあたり,ぼくはまだ自由をそのものとして享受できている。

 

 疲れることにもきっかけはあって,以前仲の良かった友人がどうやらtwitterをやめたらしい,という事件がそれだった。現在殆ど関係していないけれど,一時期は彼女とともに深夜のTLにいろんなものを描いていた。僻地にいた時分,関東に用があった時には,実際に会ったりもした。ぼくの妙に明け透けな性格と現実に対する弱さとで,彼女は離れていったのだけれど,それでも共に過ごした空間としてtwitterは意味があった。

 そのtwitterを,彼女が辞める。ものすごい決断だと思った。ガラクタであれ暇つぶしであれ,積んできた時間を帰無化することは僕にはできない。何があったのかと思えば,とあるニュースで知ったのだけれど,SNSに依存しすぎて留年してしまったらしい。そして近頃,彼女は非常に勉強熱心になったようだ。

 あの時間が,現在の彼女に齎す意味はなんだろう,あの時間が続いていたとしたら。考えると,とても寂しい。とともに,現実に今やるべきことが見つかって(ひょっとしたら,見付けて,かもしれない),それに正面から対峙している彼女を羨ましく思った。捨てた分以上の覚悟を感じるし,それでいてリラックスして,最高に楽しんでいるようだ。なんて素晴らしいんだろう。

 

 翻って考える。ぼくは彼女と同じ立場では決してない。それなりに進学し,言うほどのSNS依存もせず(強いて言えば2年前が異常だった),これまでの時間と関係を捨てられるほど強くもない。

 だけど,昨年末から感じていた,次第に大きくなっていく鈍くなる感覚は否定できなかった。自分の言葉に洗練がない。疲れ切っている。頭打ち。そんな言葉が浮かんでくるようになった。これまでは,たとえそうであったにしろ,twitterというフィルタにかけた自分に自己否定的な発想など出てこなかったのに。そして解決策は,提示された。

 

 ついにいったん止めたのが,5日前です。おそらく,blog程度の時間コスト形態なら,失いかけた諸々も取り戻せるんじゃないかと思ったのだった。捨てるのはいいけれど,失うのはもう懲りたから。

 

 これが僕の切実な願いです。