変わること,そのデッドラインの無さ

 今年身近な人が25歳になりましたと言っているのを頻繁に見かけるので,「おいおいアラサーか」と独りごちつつ彼らの悲しみを勝手に想像しては遣り切れない気持ちになっていたのだけれど,よく考えたら同級生ですね。

 

うーん。

 

 まだ学生やってるなんて,少なくとも中学出る段までは思ってなかったぞ。人生とかいう壮大な暇つぶしになんの目標もないまま,体感で言えば半分を通り過ぎてしまった。何歳になっても,高校球児はお兄さんに見えるし,イベントコンパニオンはお姉さまに見える。思えばここまで,拒むこと,抗うこと,選択しないことの積み重ねで来た。クリティックに生きている,それはレイジーではなく。

 

 誕生日でもないのにそんなことを思う。

 

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 Nという名の総研で,昼前の講義。都心も都心で涼みつつ,論理的であること,創造的であること,そしてそれらは後付けで,説得的であることなど,たらりと学ぶ。

 落とし所が見えていて,ルールは守って,でもそれは物凄い桁の動きに因って「茶番」の譏りを逃れる。転倒的で面白い。

 

 批判と当事者性が重なるとき,ヒトはやっと大人になれるのだろうか。外部から見ていると,大体のことはあってもなくても良いのである。或るものが流行り,廃れ,それが多くの事象として現れるだけで,社会が動かされている。

 下らないと思っていたけれど,少し中に入り込んでみれば,小さい頃に真面目な顔してゲームやってたあの感覚なのだろう。それが一般に言う「生産的」であるかどうかの違いは確かにあるのだろうが。

 

 最近,蒸し暑くて,カフェに逃げ込む。こんな風に考える時間がなくなれば,無常観も消えてしまうのだろうか。纏まらず,筆を擱く。