不完全性を知りつつ匿わずに居ることはむずかしい

 

 相も変わらず,手元にある個人的で些細な体験を,求められる型に流し込み,固める作業が続いている。出てくるものが歪であると推測できれば,そこにキラキラしたものを塗せば良いし,それは非常に簡単なのだが,どうもこの作業が好きになれない。

 重要性からいえば,出す/出さないの問題が先にあるし,そこから体裁が良い/ダメの話になるのであって,ぼくはどうやら最低限クリアできれば現状クリアと考えている嫌いがある。論理構成の弱さを知ろうとしている。それを隠すことと,認めることは,本来別の事象であるにもかかわらず。

 

 この辺が不器用さの源泉だ。親は小さい頃から僕を評してドイツ気質と言っていた。曰く,一たび守るべき規則を発見してしまえば,そこに固執し安住すると。ぼくの価値判断嫌いは,三つ子の魂百までというやつで,性質上バランスを犠牲にする社会的主張にはなかなか相容れない上に感受すらできない。原因は根深い,生来のものだし,仕方がない。

 

 ESにお決まりの文句として,将来の夢やら成し遂げたいことやらがある。学生時代に頑張ったこと,なんてものがある。意識的にはそんなもの全くなくて,嘘を吐くにもアリバイがなくて,結構ツンダオワタとなるのが世の常ではあるのだが(そしてご多聞に漏れずぼくもそうなのだ,ハイスペックと評されようが,アウトプットは殆どない),求められているのが独自性だという意味不明な先入観さえ取れれば,論理構築の問題しか残らない。むしろ主眼はそこにしかない。それでいいのだ。スペックの高さは,潜在能力の大きさは,クリックの先で振り分けられた後,生身で確かめられる。

 

 と,一つ規則を仮定することで,まただいぶ楽になりました。もの書く審査ではまだ落ちてないし(おそらく全て全通),これでいいのだろう。たぶん。

 

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 なんてことを2週間前くらいに書いていた。

 

 最近だいぶ落ち着いてきたので,あんまりその辺のことを考えず,もう少し離れて見ているのだけれど,そんなにズレてはいないのだろうなという感想。

 

 今週に入って,久しぶりに何もしない日をつくってみた。したいことがたくさん出てきた。悪くない。

 

 もう夏だ。