タスクのミルフィーユ

  

 日々新規のやるべきことが,どこからともなく忍び込んでくる。それは僕の計画を嫌う性質が許しているところのもので,なんだかそれを楽しんでいる風でもある。所謂成功者曰く,来たものから順に片付けるべきだ,と。モグラ叩きの要領である。僕はおそらくこれをやっている。積み残しはまま有るが,週末にはスワイプする。これでいいのだと思える機会が,外部との接触に比例して増えている。

 

 人からの評価はあまり気にしないし,それを期待して何をやるでもないのだけれど,そこから来ているのだろうか……例えば啓発的な出来事に対して説得されるのではなく,そこで再確認するか或いは疑ってみるというステップがあるのはとても良いことなのだろうなと,最近頓に感じる。

 これをやるとき必要なのは,自分の信念とやらを持たないことなのである。あるとすれば可謬主義的な柔軟性だろう。折にふれて改善する。説得されるタイミングが来る頃には,既に修正されている。そんな周到さがカッコいいと思う。全部が全部できているわけではないのだが,そこも計算に入れておく余裕も然り。

 

 あまり抽象なことをやると宇宙に電話を掛けてるみたいで気味が悪いから,今週のことでも残しておこうと思う。

 

 ここ一週間でドナルド・キーンの自伝と川端の小説を一本読んだ。ほぼまるまる2冊を揺られながら読んだ。今週は面接なり,ゼミなり,飯食いに遠回りしたり,電車移動が多かった。移動の無価値を言う人がたまにいるけれど,おそらく車内を見渡したことがないのだろう。或いは書きものには,彼らの言う価値はないらしい。

 

 日本的なものを読む上で,畳の自室もそうだがそれ以上に,電車の中というのは相当の親和性を持っている気がする。吊り広告には現代の醜さが溢れ,扉横のスペースは大概胡散臭い。疲れた顔が割合多く,たまに元気なのがいると彼らは怪訝な表情で一瞥し,また俯く。日本的な悲しさが,電車にはある。いくら車内を明るくしても,空調を改善しても,座席を柔らかくしても,拭い切れない悲しさがある。降車の開放感は,ここにあるのかもしれない。輸送されるモノでなくなった安堵もあるだろうけれど。

 

 振動の底に沈むあわれは,ピントがずれてボケたように,本を読むぼくの視界に入ってくる。じき,文章に混ざる。ドナルド・キーンの旅に,信吾のやるせなさに,電車の暗さはやけに映えた。