残余変数

 

 最近,そのために機会を設けて逢う人たちが皆,示唆の塊となって出現するので,一旦整理しなければパンクしてしまう。まあ態態会おう会おうなどといって逢うくらいだから時間による蓄積やイメージとの乖離が多いのも頷けるのだが。

 

 たとえば,ノンセクシュアルはつまらないが,セクシュアルは続かないという話。

 男と女はちがう生き物だから面白いというのは本当で,それぞれの立場があるから新鮮さを感じていられる(勿論,ゆえに時には対立もする)。しかし,そこに性的指向が加わると,大抵こじれる。それは生存分析の開始だからであり,恋愛が一種のハザードであることに起因する。

 ここで棲み分けが必要となるのだ,刹那的なパートナーを望むのであればセクシュアルのみを,深い相思相愛を求めるのであれば両者のバランスを,そして断絶しないことさえできたらと願うならば非性愛を,あなたを取り囲むあらゆる関係に対して個別に当てはめていけば良い。

 性それだけというのは安易であるから評価されず,またそれを忌避するのか例も存外少なく,ゆえに多く語られる。バランスは難しいが,飛び込む勇気は認めよう。結末は運と,その次に操縦の腕次第。

 問題は最後で,困ったことに一気にセクシュアルに振れることがある。その場合どうなるかというと,振れた方向に価値を見出しているような人たちから離れていく。そのくらいではどうにも変化しないくらい強固な関係と信じていたとて,案外脆く儚く崩れをる。その一般的感覚が欲しいと思うなどして,まま理解はできるのでよしともして,ふらつきながら帰るのであった。嗚呼,性嗜好あるところのむつかしさよ。

 

 もっと拡張すれば,たとえば,相手の立場から見るという話。

 関係から生まれた以上,関係を避けて生きることなど誰もできない。世の中にはいろんな関係があって,それぞれが手札を持ち,隠したり,誇示したり,捨てたりしながら生きている。

 さっきの話に乗っかって言えば,分かっててやってるのか,分かってないけど我を通すのか(あるいは流されていくのか)というところ。こっちの好意があっちの脅威だったり,互いが互いを分からないがために虚勢が狂気に変わったりで,まあややこしい。

 僕は,もっと悩めと思う。余計な事は,しすぎるほどいい。それって結局,経路はすべて余計ではないからなのです。逆説的だけど。

 相手になりきる必要が本当ならあるのかもしれないけれど,そんなことはさすがに不可能だから,できるとこまで努力をすること。(自分を通し,かつ)相手を通した世界をもっと認識すること。理由を探すこと。それは合理ではなくても良いから。

 

 

 

 事実上の備忘録。