過去も未来もここにはないんだよ

 

 今日,なんだか塞いでいた。受動的で居ざるを得ない環境で,自分から仕掛ていこうと,気持ちだけでも,切り替えるのは難しい。昨日がそんな日だったのを,次の日まで響かせる。自分の操作可能性を以って意識と呼び,その高さという意味において重要だと常々思っていて,行動の唯一と言っていい規範にしていた身にとって,非常に耐え難い二日間だった。

 

 火曜は全休だったから,昼から出掛けた。先週の土曜に忘れ物をした恵比寿のビヤホールに寄って,カメラケースを回収して,その流れで写真美術館へ。去年も確か,この時期に来た。同じように暑いが,今年は一人だ。世界は事件や深刻な日常と同じくらい,明るい笑顔や神秘に満ちている。その一員である自覚もなく,ただメタに眺める写真も美しいが,いつかフィルムではなくファインダーだけ通した状態にまで近づけたらいいと思う。主人公は似合わないから,ビハインドに。

 

 恵比寿と目黒は隣の駅で,つい歩いた。まだ7月も上旬なのに14時過ぎは茹だるような暑さだったけれど,なんとなく二郎に行きたくなった。思い出すことも少なからずある。腹ごしらえをしたあとは,その足で中目黒へ。銀座で乗り換え,浅草に至る。

 

 友人と落ち合う。前に中野で浪人していた時からずっと行きたかったほおずき市に繰り出す。その日の浅草寺は四万六千日で,126年分のご利益を戴きつつ,ぶらりと歩く。この時分で既に日焼け止めは流れ落ち,肌は灼かれ,そこに汗が遊ぶのでひりひりする。構わず歩く。

 

 結局,仲見世であげまんじゅうを楽しみ焼きたての煎餅を喰らい,もつ煮込み屋で引っ掛けたりする。煮込み屋では店主の娘が荒れていた。客は大概ニヤニヤしている。この街には寛容の風がある。忙しいには忙しいが,乾燥とは無関係の風が,コンクリート色に囲まれた日々を送っていたぼくにやさしい。

 

 市はヤのつく自由業が仕切っている。この界隈の秩序は彼らが守っている。あからさまな方が良いなと思う。

 売り手の威勢の良さも,他では見られないだろう。台湾よりもススキノよりも声が掛かる。折角だから何軒かで話し込み,いい男だなんだと囃された店で鉢を買う。売り子に17歳が二人いて,この道なら知っているであろうあしらいが未だ見られないほどの垢ぬけなさが浮いていた。未来が哀しいからこそ,映える美しさもあるものだ。

 彼女たちがそうでないにしろ,不明瞭は恐怖につながり,そうなると過去だけでなく現在すら愛おしくなっていく。現状維持は不確実性の高い状態における最適な戦略であり,因って好ましく,さらには美しい。

 

 赤いほおずきと緑のほおずきのなる鉢は,研究室の入口近くに飾った。自分以外の生命が見える部屋はやはり良い。

 おまけにもらった風鈴は,窓際に飾った。クーラーを使わないことで,風鈴が鳴る。冷房を使わずとも,しのごうと思えばしのげる夜が待ち遠しくなる。

 

 不確実性を遊べるまで,どれだけかかるだろう。未来の欠片が見え始めた瞬間,昨日のぼくは塞いだ。しかし,どうにかしないといけないのだ,どうにかしなければ,どうにでもされる。後者を見越して飛び込んだのに,メタに見てしまって辛くなっている人間をぼくは何人か知っている。覚悟は防衛の手段だ,攻めるより傷つかないためにある。弱いとやられるのは同じだろうけれど。どう処すれば良いのか,ここ半年くらい考えているのだけれど,なかなか答えが出ない。

 

 飛び込んでから考えるほかないのだろうか。それだけは勘弁だ。なんにせよ,数回折れてくたびれてもなお残るような覚悟がほしい。楽な方向を常に探してきたんだから,能動がその解であれば従うほかない。表現の矛盾が主張するところが閉塞感なんだろうな。

 

 徐々に変わっていくのが悪くないと思えるまで猶予はあるだろうか。

 現在より愛せる未来なんて?

 

 人間が得る喜びより失う恐怖を強く感じるのは本能だが,現代社会ではそれを非合理と呼ぶのだと,誰かが言っていた。本能から脱し切れないのに,角も牙もないまま,今夜も眠る。纏まらないまま眠る。