人間の無限性或いは完結しない関係性

 

 代弁者,という考え方があった。すっかり忘れていた。

 自分の心情をできるだけ整理するとどうなるかを与えてくれるもの。大抵は音楽で,たまに文学で,普段の僕を形成している要素なのだから,人生の微分点で僕を表象するのは当然といえばそうなのだけれど,当たり前にいる彼らに何度救われたか知らない。今日は中島みゆきと,Hermann.H & the Pacemakersにお世話になりました。

 

 でもここは,上手く整理できないままに,僕の抱える複雑らしきものを,生で書こうと思う。手紙はまだ書けないと識ったので。

 

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 僕等お互いのことをよく知らないままに,これまで付かず離れずで過ごしてきたのだと思う。それが奏功して,想像力を逞しゅうして,それぞれイデアルな像を築きあげてきたのかもしれない。そして,完全なイメージの欠落を恐れる気持ちが僕たちの将来を遠ざけ,或いは積極的な現状維持に走らせる原因になっているんだろう。

 

 つまり,起こっていることは全て正しいのだと。受け入れるほかないことなのだと。

 

 それはそうだと思う。埋めようのない距離,抗えない変化,失われる日常乃至生活,こんなこと多くの人にとって当然で,諦念なんて高尚なものを持ちださずとも受け入れざるをえない。

 

 でも僕はやはりそれが厭なのです。君が未だに馴染めないというその感情より,より積極的に嫌悪してしまうのです。僕は環境的に,何より感覚的に,君のイデアルを守り続けてしまっている。そして逆も然り。全て受け入れてしまう僕はやはり優柔不断でしょうか。

 

 僕らたぶん(というのは先々の話だから。誠意に則る表現にしておく),これからもきっと大丈夫なんだ。だって結句,逢いさえすればよいし,逢わない理由もなかったのだから。だけどどこでふみ違えたのやら,きっと僕らは(少なくともあの時の僕は),横たわる性差の壁を軽く見ていた。

 

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 やはりここには,肝心なところまで書けない気がする。手紙「でも」などと強がったけれど,こういうところを切り捨てないとなにも伝わらないの,かも,知れない。翳りゆくと自称する感性には,そうでなくとも感性には,修辞がなくとも映える言葉が要るのだろう。

 

 ほらまた,蛇足。