余慶(赤いリボンもキリリと・その2)

 

 ここ最近も相変わらず,物理筐体(とは言え最先端技術で薄型)に有形の金銭価値を貼り,赤い身体の銀の口へ投げ込んだりしています。

 

 変わったといえば働きはじめたくらいで,13ヶ月位前はお遊びだったものが今では本職になっています。赤い塔も近くなった。

 

 ごく最近の話をすれば,人生で初めて歯止めが効かないことになっており,自分でもどうしたら良いかわからず,かなり極端に振れる日々です。純粋さと半端な経験が悪いものを作ってしまったのか知ら。早いところ落ち着いて,まともな振る舞いができると佳いのだけれど。収斂したところが安定的にプラスだってことを証明できない限り,評価なんて出来ないだろうから。きっと楽しくなるよ。

 順番が大事だってことを忘れたのも初めてだったし,忘れさせられたというのも初めてだし,いつまで初めてが続くのか不安なくらい山盛りだ。愛おしいと思わないことには。

 

 あと,久々に美術館に足を運んだり,旅行してみたり。赤い電車の近くと,赤べこのところ。赤いな。最近余裕がなく,美術館の中でようやく少しそれを取り戻す始末だったのだが,とても良かった。旅行に関しても同じく。ただ,クルマに乗るとあまり良くないかもしれない。気持ち,前に出てしまう。

 

 仕事の話。

 出来ないことの原因を探す前に,なにが出来ないかを整理すると,原因が総論的になる。それゆえ解法にも工夫がいるのだけど,トータルで考えればそのほうが楽です。

 という当たり前っぽいことが全然できなくて,わりかしもがいていてバッカみたーいと思うことも屡々なのだが,こればっかりは仕様が無い。最初は殆どの人がうまく出来ないって事実と,例外もそれなりにいるという現実との間で,なんとかスタンスを取らなくてはいけない。出来ることを,出来るだけの早さで,出来る以上に正確に。

 とはいえ,そろそろ半年。馬鹿さをパワートレインに。

 

 がんばろうね。

 

 

休憩で書き,それから書く日々

 

 が,明日から始まります。

 今日までは解析です。事前分析とは異なる結果になってしまったけれど,まあ書けないこともないかな。計量系で本当に良かった。

 

 27日までに初稿をあげて,お休みに入るのだ。

 といいつつ,3連休もできるだけ外に出ます。

 

 今年は帰省しない年末年始。一章分書き上げたら,計画を立てよう。

 

 

手帳を贖う

 

 手帳,よう使わん。

 

 覚えておかなきゃいけない用事はさほど多くないし,忘れてしまうようなものはそもそも気にしない。それで大事に至ったことも殆ど無い。2度目の大学生生活が始まってから3年ほどと,就活していた3ヶ月間だけはそこそこ使っていたけれど,振り返るとあってもなくても同じだったし,iPhoneを使い始めてからはそっちがメインになっていた(それも大して使わない)。

 

 それでも,社会人になるにあたって買おうと思う。手帳をだ。

 落とせない用事が増えるからではない。それだったらiPhoneで十分だ。リマインドまでしてくれるんだから。

 そうじゃなくて,僕は,モノを書く作業のための時間を(強制的に)確保するために,手帳を買うんです。手帳を,というよりは,ほぼ日手帳を。手帳に感ける余裕の有無で,自分を観測するために。

 ほぼ日手帳って厳しくないから,毎日書けるとはやはり思えないけど,日々触るだろうことは間違いない。月割週割は最低限として,1日1ページの分量が確保されているところで買うのを決めた。日々に当てられたページで観測する。週割までは完全な実用。(追記:週割はなかったです,買っちゃったけど

 日記として併用できる所が佳い。日記もしかし続いたことねぇなぁ。すぐ辞めちゃうんだよなぁ。飽きっぽすぎる。他に問題がありそうだけどまだ考えないでおこう。やりたいこととか書いていけばいいのかな。

 

 文章を書くこと,そこまで得意でない。昨日書いた「打ち込めない」とか,あるいは具体的な趣味に自信がないとかそういう話。でも日々を整理していかないと,今までみたいに思い出すことの殆ど無い暮らしになってしまう。それはもう辞める。

 不確実性を大好きなままに,楽しみ方を変えようと思う。起こったことまで曖昧にするのはもったいない気がするんだ。おとなになったなぁ。

 

 

 そんで今日,手帳を色々みてまわったのだけど,商品数すごいですね。あんなに売ってて食いっぱぐれる会社とかないのか,もしかして淘汰されてもあれだけの数なのか。すごいすごい。

 あとどう考えてもモレスキンは高い。様々理由を並べ立てるエントリをたくさん見てきたけど,結局ブランドなんだな。そのものにそこまでの価値はない。方眼のあのサイズだったら,いま使ってるLIFEかClairefontaineを使います。それもまあ高いんだけど,納得はできるし。ちゃんちゃん。

変身

 

 

 中学の頃からだろうか,規則に区切られた時間の中で意識するのは,能力や技術をいかに効率よく伸ばしていくかということではなく,効率よく時間を経過させることでしかなくなった。無論,能力も技術も経験に従って身についていくけれど,そんなことはどうでもいい,束縛的な時間から逃れることだけを考えていたように思う。

 

 何かができるようになるのを異常に恐れていた。何者かになるということは,この生の完成で,死の手前のように思えた。何者にもならないことで死を避けられるとは思っていなかったけれど,加速度的な無への接近よりはマシだ。人よりも少しだけ飲み込みの早かった少年時代,部分的な完成が欲しくもないのに通り過ぎて行って,それにはもう抗わなくなっていたけれど,積極的に手に入れようなんて微塵も思わなかった。

 何かに打ち込んだ経験なんて今でも殆ど無い。全て中途半端にとどめている。もう,もしかしたら熱中なんてできなくなっているのかもしれない。セーブしていたつもりが,不能になっていて,でもそれが望んだ結果だから仕方ない。そこそこでもどうにかなる環境にしか身を置けなかったのも事実だし,来年からの環境がそれを許してくれないであろうこともわかっているから,本当はどうにかしなければいけないんだろうけど。

 

 束縛から解き放たれた僕が何をするかといえば,ひたすらだらだらするのみだった。自分の裁量でできる回避が,まあ逃避でもあるのだろうけど,怠惰しか考えられなかった。唯一,本だけはよく読んだ。小学校までは雑学ばかり,中学からは小説にシフトした。小説は良い。いくら読んでも,自分自身が何者かになる心配がないからだ。自分の中に何者かを置いて,動かされて遊ぶ。変化はない。そうして遊んでいるうち,自分をどこまで操作できるかということに思いが至った。

 

―― ―――

 さんざ書いたけれど,これは臆病と無責任の出処を確認する作業であって,モノローグにすらならない。前者はさておき,後者は赦されないから,操作もいい加減止そうと思う。あとに何が残るだろう。享年25で,また来年。

与える男

 

 今日は朝起きなかった。朝ごはんも昼ごはんも食べなかった。夜は新代田に行きたいし,川端を読みたいし,美味しいコーヒーを淹れて飲みたいという3つの欲求に勝てなかった。

 

 否定が疲れるのは,肯定が自然だからなのだろうか。

 

 肯定でも否定でもなく,ためらいだけが偶然を作り出している小説を読み終わった。成行日和見でのらりくらり来て,よくわからないまま愛されてきた身には少々堪える内容だった。毎度どうも,変えよう改めようと思うのだけれど,甘やかされるのを押しやることができずにいる。 

川のある下町の話 (新潮文庫)

川のある下町の話 (新潮文庫)

 

 善意無過失だろうと,薄っぺらい決心だけでは,大きな偶然に勝てないという説話でした。それとも,避けられるであろう偶然が多いんだから,過失はあったと見るべきだろうか。無責因という当て字を何処かで見た。

 人にはおすすめしないでおこうと思ったけれど,素晴らしい後期作品である。

 

 動かされたくなければ自分から動けばよい。他者意思の関与が問題となる場合はそれで良い。でも,動きたくない場合はどうだろう。自己意識の問題だ。動くのは正解なのだろうか。僕は動きたくないから動かないのだけど,もしかしたらもうひとつヒネったやり方があるかもしれない。

 

 転倒的な正しさは,ただただ転倒的であるだけなので実は超シンプルなのだけど,なかなか受け容れられない。急がば回れ,巧遅は拙速に如かず。分かっちゃいるけど踏み出せない。

 

 

続けるってむずかしい

 

 一番難しい継続は,何かをやめることだとおもう。

 

 今週から3つほど,一旦やめることにした。論文のやる気が全く出ないので,何かしなきゃなーという焦りを伴った変化ではあるが,やらないよりはいいんじゃないでしょうか。論文は相変わらず動かないですが。いいのいいの,これ書いたら再開するよ。

 

 続けるというのは単調である。そして,実行には我慢が伴う。僕はどうも落ち着いていられない性分の持ち主で,たとえば2時間前後じーっとしてなきゃなんない映画なんて相当の覚悟がないと観ることができない。何かしら自分が動いてなきゃ辛くなってしまう。もっとこう,どっしり構えて生きていきたいものだけれど,いや諦めることをモットーにしているので内面的には達成できているのか,しかしソトミも見苦しゅうないようにしておきたい。我慢の修練が全く足らん。

 

 そういうことなので,3つやめたのである。